NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

コンプレックスという道しるべ

一昨日、久しぶりに体調が悪くて頭痛が止まらず、一日中寝ていました。
単なるカゼを病気なんて呼ぶには少し大げさだけど、単なるカゼでもパフォーマンスの低下には十分すぎるくらいだと改めて感じます。
のど元過ぎると熱さ忘れる、ですぐそのとき感じた苦しさや心細さを忘れて、具合が悪い人間への配慮が足りなくなったり、無謀な選択を選んでしまったり……。未熟だなぁと思い知ります。


自分が「普通」から降りた大きな理由の一つは「体調不良の頻発に悩まされたこと」もあります。
普通を降りた、というよりも一人つまづき、こけつまろびつしている間になし崩し的に降りた形になったかもしれません。

当時は「いい年」になってもまだ体調という勝負・競争以前のところでつまづいていました。
そのことは自分にとって「恥」であり「ネック」であり「黒歴史」であり「コンプレックス」でした。
人生にはどうあがいたって手に入らないものがある、ということを自分は体調不良の頻発から学びました。

そのことでずいぶん悩み解決策を探った結果、なんとか今、一昔前よりは安定はしています。
そのおかげで、一昔前の苦しみを生々しく体験する機会は減りました。一昔前よりも人生への絶望感は少しやわらぐようになりました。
そうすると、ときたま「自分にも他の道があったのではないか……?」という思いがよぎることもあります。
自分の頑張りが足りなかっただけで、あともう一歩頑張ればうまくいっていたんじゃないか、と。

けどそれは過去の自分に責任を転嫁するものでしかないのだと思います。
そんなのは、少しだけ答えを知った今だからこそ言えることであって、うまく動かない体と未熟な人間性を持て余したまま、暗中模索を繰り返していた当時の自分にあれ以上のことができたとはやはり思えません。

そのようなことを理屈ではわかっているつもりですが、なにぶん未熟者ですのですぐ色が出ることがあります。
しかし、今回のような体調不良が起こり病気の苦しみを思い出すたびに、今でこそ落ち着いたけれど、自分は確かにあそこから歩いてここまで来たのだ、ということを思い出させてもらえている気がします。
自分の原点は確かにあそこにあり、そこから出発した自分は、今確かに、いるべくしてこの道にいるのだと納得します。
そうすると、「青く見えていた隣の芝」は、残念ではあるけど自分には確かに縁のなかったものだと納得できるようになりました。

それはある種理屈を超えた次元の話です。
恐らく自分のこれまでから導かれた結論が、たとえ今の「常識」からみて不合理であり、それを百の言葉や理屈で説明されたところで最終的には判断の拠り所となりうるのは自分の原体験になるのではないでしょうか。
理屈として話の構造は理解できたとしても、それが自分に「合うか否か」の判断はまた別の話です。
他人とは決して共有できない自分の原体験は、「それは自分にとってはどうなのか?」という判断基準において強い力を発揮すると思います。


親にも友人にも言えずにいた自分のコンプレックス。
それを「無理に矯正する」のではなく「うまく付き合う」方法を見つけることができれば。
自分の足を引っ張り続け、これさえなければ自分はもっと良い人生を送ることができたのにと何度も呪ったコンプレックスは、自分には合わない選択肢、自分には向かない道を教えてくれる「自分だけの確かな道しるべ」となり、やがてそれは「自分の確かな個性」へと昇華するのかもしれません。

他人と違う道を行くというのは孤独で不安な道です。少なくとも自分にとってはそうです。
ですが、自分を後押ししてくれるのは自分を理解してくれる人だけとは限りません。
自分がいまここにいる理由を教えてくれ、自分は間違ってはいないと教えてくれる道しるべも、自分に自信と足場を与えてくれます。
これまで苦しんできたコンプレックスは、自分の道しるべとなり、個性となり、道なき道を行く自分を導いてくれる存在となることもあるようです。