NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

マクロな世界とミクロな日常のバランス

連日中国での反日デモが話題になっている模様。
ツイッターでもずいぶん多くの方の発言や記事へのリンクを見かけました。

対して自分の日常はというと完全といっていいほど通常営業でした。
今回の渦中となった中国という国に知り合いもおらず、自分自身も縁もなければ用事もなし。
現在企業活動にもノータッチな立場にいるので業務上の関係で動乱の中国の気配を感じることもありませんでした。


今回の件を対岸の火事だといって他人事だとは思っていません。かなりきな臭い流れを感じてはいます。
しかし、そうかといって今現在の自分に何ができるかと言われると何もできません。
自分はそもそも中国という他国に対してなんのコネクションもありません。実情を知りもしないし、知っている人を知ってすらいません。
web上ではそれなりに自分という存在を知られているかというとそんなこともありません。ツイッターやこのブログ上で何か発言したところでよほどのめぐりあわせがない限りほとんど誰の目にも止まることなく、web上の有象無象の一つに埋もれていくだけでしょう。
せいぜい「枯れ木も山の賑わい」と、しかるべき人間のしかるべき発言を支持するその他大勢として一票を投じるのが限界だろうと思います。

そして、自分という人間が何をするべきか、ということを考えますと、やはり上記の程度が妥当ではないか、と思います。
まだまだ未熟者で知らない事だらけですが、昨日今日この世にやってきた人間でもありません。それなりに思うところもあったりします。
ですが、やはり自分の現状と言えば「自分一人の面倒すら手に余っている」と言わざるを得ません。
どれだけ高尚なことを言おうともそれは事実です。

「一人前にもなっていない奴は黙ってろ!」というわけではないのです。これほど情報発信が容易になった世の中で一人前になるまでは発言すら許されない、というのは何か違う気がします。
どちらかというと、周囲の為に黙ってるというよりは自分の為に少し控えてる、という意味合いの方が強いです。

といいますのも、よりマクロな世界の情勢について勉強したり意見を言ったりするのも良いですが、それにかまけて自分がいる日常のことをおろそかにしては本末転倒のような感じがします。
自分の面倒をとりあえずは見られるようになってから、よりマクロな世界への対応に多くの時間を割くほうが現実的だと思うのですよ。
それにミクロな日常すら支障をきたしている人間にマクロな世界のことで大きな働きができるか、というと疑問です。

ミクロとマクロどちらが大事か、というとやはり、どちらも大事だ、となるのではないでしょうか?
より大きいマクロな世界が動乱に包まれればやがて自分のミクロな日常にもその動乱は波及します。自分の日常には差し合たって問題ないからと見ざる聞かざるを決め込むのは少し恐いです。
そうかといって、そちらにばかりかまけて、自分の日常を先に破綻させてしまっても本末転倒です。


なのでバランスとして、マクロなことは世界の片隅からボソボソと呟く程度に留めておいて、あとは自分の日常を大事に生きるのが今の自分の現状からいうと妥当かなと思います。どのみち、先陣をきってこの問題に切り込めるほどのスペックは自分にありませんし。

将来のことも似たような感覚でとらえています。
「目はいくら空の高いところを見ていても、足は地面を踏むことしかできない」稲盛和夫さんの言葉です。

世界の片隅に生きる自分の日常とは
『中国のニュースをネットで見てボソボソと呟きながら、ピンポンが鳴るので何かと思ったら電気メーターのチェックに来たおばちゃんが裏のドアが開かないってんで、恐ろしく立てつけの悪くなったドアを開けようと、表と裏から二人がかりでがったんがったんやってた』
とか
『自分の強みを生かせる立場を目指して既存の道を降りたものの、知り合いの家に転がり込んで、自分の理想から千里は離れてる二束三文の在宅ワークを調べ、その実情に若干足をすくませながら自分にできそうなやつをちまちま選んでる』
とかそんな感じになっております☆