ネットにはいろんな人がいて、いろんな活動をされてますが、毎日のようにそこにいたハズの人たちがふっといなくなるのを見かけて、WEBにある一種のわびさびを感じてました。そんなアレコレです。
一番最近(ていうか今日)「いなくなったこと」を知ったのは、「病理医ヤンデル」先生。ツイッターでは有名な垢で、自分もフォローしてました。発言回数が多く、ツイッターを見ると必ず「ヤンデル先生のツイート」を見かけ、いつの間にか「そこにいるのが当たり前の垢」になってました。
が、ここ最近見ないなと思って、今日垢ページを覗いたところ、活動終了のお知らせがあり、下記のような更新も。。。
これを見て初めて「『病理医ヤンデル』が一種の広報垢」であり、「綿密な計算に基づいて運営」されており、「運営が難しくなったらすぐに終了する予定だった垢」だったことを知りました。
自分は空気読めない系の人間なので、ある種の目的に合わせてキャラを演じられる方ってすげぇ頭いい人だなーと思い(頭悪い感想)、普段のヤンデル先生のスベり芸的発言とのギャップに空恐ろしさすら感じる始末でした。
それはさておき、また一人、ネットで注目していた方がいなくなってしまったわけで、ネットの侘しさを感じました。
実はここ最近、というか少し前、去年あたりにとても注目していた方がおられましたが、その方もすでにネットから消えてしまわれました。もしかすると別垢でどこかにはいらっしゃるのかもですが、そういうのは直接つながりがある方しかわかりませんからね。
少なくとも、以前の名義ではもう活動が止まっているっぽいので、実質消えてしまわれた感じです。そしてもう、自分はその方を追いかける術がないわけで、残念だなぁと。
毎日のように楽しみに見ていたので、日常の楽しみがなくなって寂しい、と。
が、これがまぁ「ネット」なんですよね。
ネットには当たり前のようにいろんな人がいて、いろんなことを毎日されてますが、よーく見ると、静かに去って行かれる方もけっこうおられるなと。そのきっかけが、つまらない炎上騒ぎだったりすると、本当に残念だなと思ったりします。
そして、本人の心境の変化とか、そういうものでも人はいなくなっていくので、止めようと思って止められるわけでもナシ。
いざ去っていかれると、本当につながりがあった一部の方達を除いて、もう二度とその人に触れられる機会はないわけで。
ネットのこういうところ、諸行無常的なわびしさがあるなと、最近思います。
「ネットを去っても困らない」は一種のステータスだと思ったり
ネットに侘しさを感じるのは、そもそもネット自体が「満たされない人がいる場所だから」という理由もある気がします。
最近、ある発言を見かけました。曰く、「インターネットで何かを書いていたりするのは、満たされない何かの代償行為なので、満たされるとネットからいなくなる」というもの。なんか、その通りだなーと。
趣味にもよると思いますが、現実が満たされている人は、WEBでずっと何かを発言し続けることってないと思うんですよね。現実が満たされているような人なら現実の方が忙しいし、WEBよりずっと確実なリターンもあるわけだし。
その上、WEBでの発言にはリスクもあるのに、それを超えてなお、現実が満たされている人が用もないのにネットをうろついたり、憑りつかれたようにWEB記事を更新したりするって、なかなかないと思うんですよ。
あ、「広報」とか「アフィ」とか、何か明確な目的がある場合は別ですよ。そういうのは除いて、飽きずにネットにいて、さらに何かを発信できる人って、やっぱり「満たされない何かがある人」って感じが、自分はしますね。
だから余計に、WEBから去っていく人の方が健全って感じがしなくもないんですよね。
何かWEBって世界の最果てにある飲み屋のようなイメージがあって、満たされない何かを求めてさまよっていたり、癒しを求めてやってきた人が中心というイメージです。
何かのきっかけで現実が満たされた人や、WEBでの活動で現実にも居場所ができた人は、もうそれ以上、WEBにいる必要ってなくなると思うんですよね。WEBにいるより現実にいた方が楽しいし、リターンも大きくなると思うので。
WEB自体がそんな印象なので、「いつWEBから去っても自分は困らない」という状態は、一種のステータスだと思うようになりました。
今後も付き合いを続けたい人とは連絡先を交換しておいたり、WEBにいなくても心身のバランスを保てるようになったり・・・と、あれこれやっておけば、WEBから去っても自分の現実は変わらないわけで。すごろくでいう「アガリ」に入った人という印象です。
WEBから去っていった人たちに寂しさは感じるものの、去っていって戻ってこないなら、もうWEBが不要になるほど現実が満たされたのだろうということで、ま、しゃーないよねという感想です。