NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

発達障害の検査を受けに行ったときのアレコレ

発達障害は自分にとって一時期大きな関心事になっていて、前にちょっと書いた通り病院に検査受けにも行ってます。

結果は「その可能性はあるかもだけど、何とも言えない」みたいな感じに終わって、それでなんか気が済んだのか、自分のなかでの関心は落ち着いたんですが。


検査を受けに行ったときのこととか、その後のあれこれとか、一度まとめときたいなぁと長いこと思ってましたが、いろいろあって時間が経ってしまって。

当時のことってもう6年くらい前になるんですが、通院してたときのメモがちょっと残ってるので、それと当時の記憶を頼りにちょっと書きます。

と思ったらけっこう長くなったので、お暇な方はどうぞという感じです。

発達障害の検査、受けに行ってみた

■受診するまでが大変だったこと

当時の自分にとって発達障害のことは目からウロコが何枚落ちたかわからんほどの衝撃で、マジで当事者なのでは?みたいなことは真剣に思ってた気がします。

受診の動機は、当時抱えてた世の中や他人への疑問や不満への答えがわかるかもみたいなものもあったし、診断出て障害者手帳取得できたら生活がちょっと楽になるかもなぁみたいなのもあった気がします。


で、当時余裕でいい年だったので、大人の発達障害を診られる病院を探したわけですが、県内で2軒くらいしか候補なかった気がする。

1軒はマイカーないとまず無理やろみたいな僻地で、もう1軒がわりと街中にあったので、後者に決定でさっそく連絡したわけでしたが、予約可能な日は一番近いので半年先と言われて。



当時は発達障害のことがわりと広まったあたりの時期で、受診希望者が増えていたのかもだし、大人の発達障害を診られる病院って基本少ないらしくて、その影響もあったのかもです。

「早くて半年先」にはさすがに面食らったけど、当時は相当悩んでいたせいか、まあ半年待てば受診できるだなって気持ちにすぐ切り替わった気がします。


で、結局本当に半年待って、予約取ったのは年明けから少し経った頃だったのが、実際に受診したのはもう夏頃だったと思います。

受診の機会貴重すぎて、予約日時書いたメモを半年間ずっとPCに貼り付けてて、1か月前くらいに受診の確認の連絡が来たとき「まだ覚えてます・・?」みたいな雰囲気が相手にあったけど、余裕で覚えてましたね。

むしろワイのこと忘れられてるんじゃないかみたいな不安があったんで、確認の連絡来て安心したくらいでした。

■ようやく初診を迎えたけどちょっと失敗したなと

受診先は精神科の病院で、精神科を利用したのは生まれて初めてでした。それもあってか具体的にどういうことするのか全然想像つかなくて、これという準備をせずに当日を迎えたのはちょっと今では悔やんでいるとこです。

っていうのも、初診で「自分が発達障害だと思った理由とその具体的なエピソード」を聞かれて、これまでのことをひたすらこっちから話さなきゃだったんですよね。


ここで話した内容は、のちのちの診察とか最終的な診断にけっこう影響したので、もっと話すことまとめとけばよかったと。

当時はいろいろ悩んでたので即興でも多少はエピソードが出てきたけど、もっとほかに良いエピソードがあったなぁって、出だしに失敗したと当時思ってた記憶があります。


また次の機会に話せばいいじゃんって気はするけど、自分のことをゆっくり話す機会って初診のときくらいしかなかったですね。次回以降はわりと診察がサクサク終わる感じで、最初に伝え忘れたことをあとでまた伝える機会ってなんかなかった気がします。

今の自分から見たら「初診のときに伝え忘れたんで」みたいに言って伝え直したり、時間ないなら文章にまとめて先生に渡したりすればよかったなとは思うけど、そういう機転とか柔軟性とかが当時はなかった人間でして。


規定の流れを破ることへの生理的な抵抗感みたいなのも、当時の自分はちょっと持ってたのかもで、「自分の具体的なエピソードとかは初診のときに伝えるもの」みたいな流れがあると、伝え漏れたことをあとで伝え直すのはちょっとハードル高かったのかなと。

今の自分なら言い忘れたことはあとからでも伝え直すと思うけど、時間が限られてるなかで口頭で伝えるのって今でもきついんで、紙にまとめたものを渡す方向で行くかなと思います。

■診察で予想外の壁に当たる

初診以後に検査を受けて、先生の診察も何度かあったわけですが、そこで直面したのが「小さい頃の様子を知っている方を連れてきてほしい」ってことで、早い話が親同伴で来てほしいと。

言われてみれば、待合室に一人でいるのってワイくらいで、だいたいの人は誰かと一緒に来てるっぽいけど、そういうことだったかぁと。


当時は発達障害関連の本を読み漁ってた時期で、「発達障害のチェックリスト」みたいなのも散々見てましたが、診断の基準とはもちろん違うんだよなって、言われたら当たり前の気づきに至って。

実際の診断にあたっては自分以外の協力者がいるとなると、これはもう詰んだなって当時思ってました。


っていうのも、親に話してもたぶん協力してもらえない感じがしてたのと、自分としても診断が出たら発達障害のこと話すかもだけど、疑いの段階では極力話したくないって気持ちが強かったもので。

親の同伴は事実上必須だったんだけど、「強制ではない」とは言われてたので、自分は最後までソロ受診でした。せめてもの資料として、母子手帳とか保育園・小学校のころの通知表とかは渡してましたけどね(どっちも実家に残ってた。ここは親に感謝)。

■ソロ受診だったのもあって結果はよくわからず

親同伴の受診が難しかった影響はデカくて、最終的に「診断不能」という結果に終わりました。小さい頃の様子はそれほど大事で、これがわからないと判断のしようがないとのこと。

何でも、特定の傾向が平均的な子供よりも強く見られることと、それが客観的な情報(親の話)から読み取れることが大事なのだと。

それがはっきりわからなかったので、発達障害があるともないともいえないとの結果に終わって。


一応、初診で伝えた話から読み取れるASDの傾向と検査結果はある程度一致しているとは言われました。

あと、「ASDの可能性があるんだろうなぁという感じで、診断を出せる基準を超えるか超えないかあたりの感じ」とも言われました。


まあどっちも診察終了後の先生の感想で、正式な診断ではないんですよね。それと、先生がかなり慎重に言葉を選んでる感じがしてて、真意がよくわからなかったところもありました。暗に「それっぽい感じがしなかった」と言われたのかもしれません。

こういう感じで、自分の発達障害の検査は尻切れトンボに終わった感じです。


発達障害の検査を終えての感想

実際に検査を受けに行って一番強く思ったのは、本を読んだときの感覚とは全然違うなってことで。本には診断基準とかは書いてないから、本を読んで自分のことだと思っても、診察や検査を受けに行くとまた違って感じられるものだなと。

実際に診察を受け終わった今となっては、発達障害って「程度の問題が大きい」と感じるところで、この点が受診前の段階ではちょっと抜けてたかなとは思います。


たとえば「思ったことをそのまま口にして空気を凍り付かせる」みたいなのはASDの特徴の一つだけど、これがどれくらいの頻度であるのか?みたいな話で。

1か月に1回なのか、1週間に1回なのか、1日に1回なのか、それとも1時間に1回なのかで話は違ってくるかなと。


発達障害の特徴は多かれ少なかれ大体の人に当てはまるもので、その傾向が人並み以上に強く見られたときに発達障害と呼ばれるようになってくるのかな、みたいに今は思います。

でもこれも素人意見で、全然違うかもなとも今は思います。どんだけ本を読んでも自己判断は難しいと思うので、諸事情あってどうしても真偽を確かめたいときは、発達障害の診察や検査を早く受けに行ったほうがいいのかなと。


自分が経験したみたいに小さい頃の様子を重視されるなら、受診は早いほうがいいとも思いますしね。小さい頃の様子とか時間が経つほど記憶が曖昧になってわからなくなっていくし、周囲への協力もなんか求めづらくなるかもだし。

あと、初診の予約取れるの半年先とか、今日思い立って明日受けられるとは限らないっぽいので、自分に必要と思うなら予約だけでも早めにしておいたほうがいいのかもです。




ほかに思ったのは、「自分にとって発達障害って何だったんだろう」ってことで。

発達障害、特にASDに関する情報は自分にとってクリティカルで、これで自分がかなり変わったのは今でもそう思うんですが。

でも診察や検査を受けた結果、ドンピシャでもないみたいな感じもあって、自分が発達障害じゃないなら、目からウロコが何枚も落ちるようなあの感覚は何だったんだろうと。


この点は今でもよくわからないんですが、「多大な社会的困難をともなう点では、真性も仮性も関係ない」みたいなことだったのかとは思っています。

仮性の発達障害って自分が勝手に考えてるだけのことだけど、要は「本物の発達障害じゃないんだけど、何らかの原因で発達障害っぽい言動や価値観をしている状態」みたいなことで。


発達障害者でも、思ったことそのまま口にするみたいな行動をたびたびとっていれば、本物の発達障害者と同じ困難に直面するのは明白で。

価値観も発達障害によく似ていれば、周囲と噛み合わなくて一人消耗するような状況に陥るだろうと。


こういう点はあまり違いがないけど、真性の発達障害じゃないなら、自分の言動や価値観に特定の偏りがあるとわかれば自然に矯正されるのかなと。

本物の発達障害だと、自分の特性を理解するだけで現状は変わらないこともあるらしいですからね。「思ったことをそのまま口にするのは普通じゃないんだ、止めたほうがいいんだ」とわかってても、思ったことがそのまま口から出てしまうみたいな。わかっただけでは解決しないからこその障害、みたいな。

自分はたまたまASDっぽい言動や価値観をしていただけで、本物のASDとはちょっと違ったから、専門的な支援やトレーニングを受けなくても自分がけっこう変わったのかなみたいに思ったりしました。




まあ結局すべては素人意見で、自分が発達障害かどうかは結局よくわからず、やっぱりそのケはあるのかもだし、全然違うのかもだし。

今でも何かのきっかけで「実はASDのケがあるのかもなぁ」と思うことはありますが、診察や検査を受けてなんか気が済んだのか、発達障害に関する興味や当事者感は下火になったと思います。


おまけ 『発達障害グレーゾーン』読んでみた

発達障害は白黒はっきりつかないグラデーションの問題で、その傾向はあるけど診断がなかなか下りない中間層がいるという問題もあるようで。

その当事者、いわゆる「発達障害グレーゾーン」を取り上げた本も読む機会がありました。


発達障害グレーゾーン(SPA!BOOKS新書)

この本を読んだ時点では以前ほどの興味がなくなっていて、初めて発達障害のことを知ったときのような衝撃はなかったのですが、自分にASDのケがあるとしたら本書でいうところのグレーゾーンくらいに当たるのだろうなとは思いました。



本書を読んで気になったのは、発達障害には明確な診断基準がないらしくて、医師や病院によって診断が変わること。何軒か病院を回ってようやく診断が下りた例や、そこから「結局は良い先生や病院に出会えたかどうかが大事」とする意見などが紹介されています。

発達障害が注目を浴びたのは本当にここ最近の話で、それまでは「発達障害=子供の問題」とされていて、大人が発達障害で受診することに否定的な医師もいるらしいと。

自分が受診した病院は年齢に関わらず発達障害を診ていたようで、特に否定的な対応をされなかったのは運が良いほうだったのだなと、いまさらながらね。先生も親身で気さくな方だったし。



診断がなかなか下りない理由を、自らもASDグレーゾーンだという精神科医が解説した第4章は、ちょっと参考になるかもなとは思いました。

あと、「ASDの診断基準の一つであるDSM-5の『興味の限局性』には当てはまらない方が多い」という内容と、そこで紹介されていた重度なASDの収集癖の具体例がすごく心に残ってます。

 例えば、僕が以前診た患者さんだと、中学生のときからずっと工業機械のカタログをやたらと集めている方がいました。そんなカタログは簡単には手に入りませんが、彼は並々ならぬこだわりを発揮して、なぜか持っているんです。また、液体洗剤を大量に集めている人の話も聞きました。液体洗剤を保管する専用の小屋を家の前に持っていて、そこの棚に何百本も洗剤が並んでいるんです。仕事から帰ったら「疲れたなぁ」と、その洗剤を眺める。彼にとっては盆栽のような感覚でしょう。そして、持っている洗剤の種類をパソコンですべて管理している。
 重度のASDのこだわりというのは、このくらいのレベルの人たちなんです。だから世間的には「あなた、変わっているよね」と言われる人でも、ここまでには当てはまらないことが多い。DSM-5基準だと、このような並外れたこだわりがない場合、コミュニケーション障害と診断され、昨今の基準では障害者手帳が取りにくいです。


発達障害やそこから来る生きづらさに悩んでいる方のインタビューやライフハックなどもほかに載っていて、同じ悩みを抱えている方には興味深い内容かもしれないなとは思います。

自分も、なんかのきっかけで自分の能力や人間関係に問題がまた頻発するようになったら、以前よりもこの本に感じるところが出て来るかもしれません。

2019年の本なので部分的に情報が古くなっている可能性ありますが、まあご参考までに。