NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

ハイスペ・ロースペそれぞれの人生

何かハイスペックな人っていますよね。
特定の突出したパラメータを持っている人や全体的にハイアベレージな人とか。

世の中には自分の知らない、生涯知る機会もないハイスペックな世界を生きる人達もたくさんいらっしゃると思います。
自分の人生で言いますと、この人には生涯追い付けないだろうな、と思える人が自分には二人いました。どちらも全体的にハイアベレージ系でした。


この二人を身近で見て、何となく感じたことがあります。
二人ともから「なんでこれができないんだろう?」という雰囲気を感じるのです。別にバカにしてるとか鼻で笑うとかじゃないんです。二人ともそういうタイプでは決してないのですが、嫌みとかじゃなくて純粋に不思議そうな顔をしてることがありました。
どうも「運動神経のいい人間には悪い人間の気持ちがわからない」というアレっぽいですね。
おそらくこの二人には周囲がスローモーションで動いているように見えて不思議でもあり歯がゆくもあるのではないかと個人的には思ってます。直接聞いたことはないのですが(笑)



自分は間違いなくロースペック派なので不思議がられるほうが多いですね(^_^;)
ですがこれは絶対的なものさしじゃなくて、程度の問題かなと思います。

「普通の人」であれば、自分よりハイスペックな人もロースペックな人もどちらも経験があるのではないでしょうか。
自分よりハイスペックな人の歯がゆい気持ちは、自分よりロースペックな人、それもちょっと自分に劣る程度じゃなくて、ものすんごい劣っててやり取りに支障が出るくらいかけ離れて低い人を思い出してもらえればわかるんじゃないかと思います。

自分が経験したロースペックな人とは、会話がかみ合わない人がいました。以前勤めていた職場の同僚でした。
「これは黒ですか?白ですか?」という質問に「これは丸いです」という返事が返ってくるような人でした。しかもどもり癖があって「マ、マ、マ、マ丸いですッ!」みたいな返事になる人でした。それもとても早口でかなり聞き取りづらいです。
仕事以前に会話が成り立たないのだから、当然仕事になりません。職場では大ひんしゅくを買い散々な扱いになってました。当時今以上にガキで未熟だった自分も散々バカにしましたし陰口も言いました。



もちろん仕事という特殊な場面でのことですので今でもその人を全面肯定できるかっていうと微妙です。今でももう一回一緒に仕事するのは厳しいかもしれません。

それからしばらく経って気付いたことが一つあります。
これが「ハイスペックな人が周囲に持ってる感情かもしれない」ということ。
当時の自分がその人に対して、半分小馬鹿にするような感じで「は?なんでこんなこともできねーの??」って思ってた感情ってつまり、ハイスペックな人が自分に対して思ってることと一緒なんじゃないか、ということ。

ふと、そう思ってからその人のことを「こんなヤツがいたwwwww」って話のネタにすることをしなくなりました。しなくなったっていうよりできなくなりました。
そういう話し方をするたびに、「でも俺も上の方のヤツらから見たら似たようなもんだよなー……」っていうのが頭をよぎってなんか虚しくなりました。
目くそ鼻くそを笑う、ですね。

また自分のロースペックぶりにようやく気付き、社会と自分の落としどころを探る今の状況が始まり、なおさら「人のことなんか言ってる場合じゃねぇw」になりましたね。お恥ずかしい話ですが。



そういう経緯がありましたので、適性の良し悪しを考えて自分が自然にいられる方法があるなら、そしてそれが他人にひどく迷惑をかけない方法であるなら、たとえ現時点の常識から逸れたところで別にいいんじゃないかと思うようになりました。
今現在の自分から見て理解できない人であっても、それがひどく他人に迷惑をかけないなら、まあその人にはそれが自然なんだろうとスルーするようになりました。

あまりに性質が違い過ぎる人間同士を同じ基準で縛るのは、ハイスペックな人、ロースペックな人、両方にとっての不幸じゃないかと思います。
時速200キロで走れるハイスペックを60キロに抑えさせたり、時速20キロで限界なのに60キロにオーバーヒートさせたりするのは全員がジリ貧になる道だと思えてなりません。


ありきたりな話ですけど、人それぞれの人生があるってことではないでしょうか?

格差格差というけど、全員が自然にふるまって格差ができたならそれはそれで別にいいんじゃないでしょうか?
それって差別とかなんでしょうか? 
その人の個性適性が無視された、たった一つの基準に従わせるのは平等なんでしょうか?
仮に平等であっても、その平等は人を幸せにするんでしょうか?