最近、テキストが読まれなくなっている的な話はちらほら見かけるアレで。無名の個人ブログは言うに及ばずで、フォロワーの多い著名な方が書いたものですら、長文は読まれなくなってると。
スマホが広まった今、リアルタイムの短文チャットと動画文化が全盛で、ネイティブ世代はもとより、最近は中高年でも長文が読めなくなってきているみたいなつぶやきも見たことあって。
あと、タイムリーだなーと思ったのが以下のエントリ。
さて、命の削れる音を聴きながら働いてみると、本当に本が読めない。
もちろん「仕事として読まなければならない本」は読んでいる。むしろ、そうした本は極限まで効率的に読んでいると言っても良い。効率化された読書は、私にとって読書というより情報のインストールだが、そういう、仕事としての読書は強引に読み切った。
そのぶん、仕事のため以外の読書が本当に痩せてしまったのである。
(中略)
「自分から遠く離れた文脈に触れる機会」は読書だけに限らない。ゲームやアニメにしても、自分にとってなじみのある作品ばかり求めてしまうのは余裕のなさを反映していないだろうか。
昔なじみの作品をリピートするのは楽しいものだし、それは否定されるべきではないが、だからといって自分にとって新しい作品にトライできなくなるのは愛好家として悲しいことである。
『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』という問いは、「なぜ働きすぎているとソーシャルゲームの周回しかできなくなるのか」という問いに通じているし、「なぜ働きすぎていると完全新規のアニメを観るのがおっくうになるのか」という問いにも通じている。
単純に忙しくて、長文読むだけの時間と余裕がないのも、テキストが読まれなくなってる理由なんだろうなと。
このご時世に月1とはいえ長文ブログ書いてるのは化石の感すらあって、何のためにブログ書いてるのかみたいな疑問は、自分もまったく思わなくはないです。
これは自分の中で少し答えが出てる話なので、そのへんのあれこれです
かつてのブログ書くモチベーションの話
このブログ書き始めたころは世の中や他人と折り合いがついてなかった時代なので、周囲や世の中への怒りでブログ書いてたところが大きかったわけで。
世の中に居場所はないし、体調は頻繁に崩すし、先行きにこれといった希望はないしで、なんでこんなことになっとんねんと、俺は怒ってたんだと。世の中にも他人にも自分にも。
当時ニートで無駄に時間はあったし、ほかにやることも行く場所もなかったしで、鬱屈した思いをブログに流してた気がします。ブログで人生好転しないかな的な下心も多分にあったけど。
そこからあれこれあって、特に発達障害を知って疑問や不満が芋づる式に解消されてから、怒りを理由にブログを書くことはほぼなくなって。
だから更新回数が月1に減ったし、もうブログ畳んでもいいかなと当時わりと思ってました。
一番のモチベーションを失ったあと、次にブログ更新の動機になったのはアマゾンアフィでした。
こんなブログでアフィとか正気か??って感じですけど、実は昔に書いたメモリ交換のエントリがけっこう読まれてたみたいで。
ページに張ってたリンクから実際にメモリもちょこちょこ売れていて、このブログ、一時期メモリ販売所みたいになってましたからねwww
大跳ねは全然しなかったけど、なんか500~1,000円くらいのクーポンがぽちぽち来るくらいには成約してて、それがあったから月1でも更新続けてたみたいなところはあります。当時「これ(アマゾンアフィのクーポン)なかったらもうブログ書いてないだろうな」って何度か思ったの覚えてます。
メモリ交換のエントリって大昔に1回、PC買い換えたあとにもう1回書いたきりです。
対象のPCがマイナーな機種だったからこそ、自分以外にその機種でメモリ交換のエントリ書いてる人がいなかったみたいで、まさに隙間ジャンルにスライディング決めた形になってたみたいです。
当時、機種名とメモリ交換みたいなキーワードで検索したら、このブログけっこう上のほうに出てたんですよ。
あの上位表示は、競合がいなかったのが大きかっただろうけど、それだけじゃなくて、怒りに任せて駄文と恥を垂れ流しまくってたニート時代のエントリでブログ全体のボリュームが無駄に膨らんでたのも、たぶん関係してたんじゃないかなと。
書き出し当初のエントリは怒りが原動力なだけあってなんか鬱陶しいし、本人の稚拙ぶりは丸出しだし、世の中とうまく折り合えないのも残当感あるんだけど、そんなの垂れ流してた効果でそのあとのアマゾンアフィの成約へと微妙につながったのは、思い返すと不思議な流れだったなと。
余談だけど、このブログを書き始めたころはちょうどスマホが広がり始めたころで、テキストサイトの時代の末期くらいだったのかなと思います。
あのころ、ブログを書いて食っていく!!の人達が今でいうYouTuberみたいな新しい生き方として一部界隈から注目を集めていて、あの人達きらきらしてたよなーみたいなノスタルジーは感じます。
今は何のためにブログ書いてるのか
執筆の原動力だった怒りは9割以上は鎮火したとはいえ、当時の想いの名残みたいなのは多少あるし、いろいろ納得したからこそ、それもっと早く知りたかったわって想いが今は強くて。
だからまあ、10年前の自分に向けて、当時知りたかった話を書くというのが、今の基本方針になってます。「コミュ障人生」と「病気と健康」のカテゴリは特に。
こんなブログにひっそり書いてても相手に届かんくない??ってのはその通りだと自分も思ってます。
本気で相手に訴えたいなら、今は動画の時代に入ってますからね。著名人が書いたテキストですら読まれない今、無名の人間がせこせこ書いた長文がどうなのかは考えるまでもないだろうと。
ただ、自分は動画はやらないです。あれはもう作り方とかまったくイメージ浮かばない。あと個人的に動画は作るのも見るのも基本的にそんな興味ないみたいで。
自分はYouTubeとかニコニコ動画の初期を知ってる世代だけど、あのころから動画を見るって習慣はなんか自分のなかに根付かなかったですね。当時のオタク友達はドチャクソはまってたけど。
だもんで、このブログに書いてるような内容を動画にして伝えようみたいなのは、今のところはないですね。別に鼻息荒く訴えることでもないしなぁとも思うし。
それに、自分がここで書いてるようなことを訴えてる配信者も、たぶんどっかにはいるはずで。動画しか見れない方々には、そういう配信者がうまいことやってくれるだろうと。
自分はこの時代にあってもテキストでいく方針なので、ていうかそれしかできないので、この時代にあってもテキストを好む方たち、むしろテキストじゃないと無理な方たちを想定して書いてるとこがあります。
で、自分はインターネットロートルなので、ネットに流したことは山彦のように響いていって、誰かの耳にほんのり届くみたいなイメージをいまだに持ってます。
これはインターネットの姿勢としてはだいぶ古くて、2世代以上前の考え方なのかもだけど、自分はロートルなのでこれでいくつもりです。
スマホの普及もあって、インターネットはアングラな場から普通の人たちの場に変わっていて、山彦モデルも実際にはすでに消えているとは思ってますけどね。
それでも一応、ネットの片隅に置いとけば誰かに届くだろみたいな雑なスタンスで、10年前に知りたかったことをちまちまと書いて流してる感じです。
あと、自分はネットに救われた人間なので、ネットへの恩返しみたいな感じで自分なりの小ネタをネットに放流してるところもあるかもでかね。
「すべての文章には読者がいる」という話
すべての文章には読者がいるという話があって、日記の読者は誰なんだといったら、主に自分なんですよね。
10年前の自分を想定してるエントリは、主に過去の自分に向けて。
今回書いてるような「日記」的なカテゴリのは未来の自分に向けて書いてる感じなのだろうと。未来の自分に向けて、今日こんなことあったよ、こんなこと考えたよって書き記すような感じなのだろうと。
日記のおもしろさみたいなのは過去のエントリにもちょっと書いていて、これは今も思ってます。何の脚色も演出も入っていない、日常の出来事を淡々と綴った文章って個人的には好きですね。
そしてネットに公開する以上は誰かの目に触れるわけで、実際の読者さんのこともかなり意識してます。
わざわざ読みに来てもらえて単純にありがたいのは当然ありますし、自分に適度な緊張感をもたらしてくれるところも大事だなと思ってます。
人目にふれる緊張感ってけっこう大事で、非公開の日記では書けない文章が書けて自分でも意外に思ったりするんですよね。
このブログにもっともアクセスしてるユーザーはたぶん自分で、管理や更新のために来てるとかじゃなくて、純粋にブログ読みに来てるときありますからねw
言いたかったことや脳内に渦巻いてた思いがいい感じに言語化できたと思っているお気に入りのエントリはいくつかあって、これらって人目のある環境で公開するんじゃなかったら、こんなイメージ通りにまとまらなかった気がするなと。
そういう意味でも読者さんはありがたいと思っていて、エントリ書くときはけっこう意識してます。いつもありがとうございます。
そんなこんなで今月もブログを書いている
あれこれと思うところはあるけど、自分はテキスト読むのも書くのもわりと好きなほうなんだと思います。
書きたいから書く。そういうところもなくはないんだろうなと。自分の熱量は全然低いほうですが、「書きたいから書く」がブログの動機としては原点にして頂点なのかもですね。
最近は、個人が書くブログってオンライン同人誌だよなーとも思っていて、書くほうとしてもそのつもりで、基本的に自己満足を軸にしたほうがいいのかもと思ってます。
バズとか数字とか収益化を意識しすぎるとだいたい心を病むか、ダークサイドに落ちて数字だけを追いかける獣と化すと聞きますからね。
あと、「テキストは時間や場所を超えた誰かとの対話」だと、どこかで読んだことがある気がしていて。
自分もそんなに人嫌いではなかったようなので、間接的に誰かとコネクトする手段としてテキストを使ってるのかもしれないです。
自分がフォローさせてもらってる某お絵かきマンさんも、自分は人と話すのが苦手で、だから自分の言いたいことを漫画にして読んでもらっている、漫画で人とつながっているみたいな話を前におっしゃっていて。
自分のテキストもそんな感じなのかもなーと。仮にブログを畳んだとしても、テキストを通じて誰かとつながる活動は形や場所を変えて続けていくかもしれないです。
ちなみに、モチベーションを一時期つないでいたアマゾンアフィは、今はもうさすがに売れなくなってます。時間が経ちすぎて、メモリ交換した機種を現役で使ってる方がたぶんいなくなってるので。
あとインターネットで収益化!!みたいな気持ちがほぼなくなったのと、アマゾン自体が自分的に推しじゃなくなったのとで、アフィは自分のなかでほぼ終了しています。
いまも楽天のリンクとか張ることあるけど、あれアフィじゃないですよ。本当にただ張ってるだけで、アフィとか面倒すぎてやる気ゼロです。ちょっとだけご縁のあったコンテンツなので、なんかノスタルジーは感じますけどね。