まだ一部だけですが、この本読みました。
西尾維新対談集 本題posted with amazlet at 15.03.17
西尾維新さんの対談本です。
ひたすら小説を書かれてる方というイメージが強かったので「対談? 珍しいなー」と思ってなんとなく手に取ってみた一冊です。
対談されている方は5名おられ、その中に『ハチミツとクローバー』や『3月のライオン』で有名な羽海野チカさんがおられました。
西尾さんも羽海野さんもどちらも好きな作家さんなので気にかかり、なんとはなしにこのお二人の対談ページを開いてみて、このお二人の語っておられる「才能」についての話がとても気にかかったのでちょっとご紹介しておきます。
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才能って言われたら何を思い浮かべます?
自分は「それがあるからこそ特別なことができる」というポジティブで羨ましいようなイメージを持っていました。
それゆえに羽海野さんと西尾さんの対談はかなり目から鱗でした。
羽海野さんはまずこうおっしゃいます。
才能と言われるものを、何かどこにでもいける切符のように思っている人がいる。その切符を持っているのはいいな、と言われてしまうと、ややもすると「タナボタで良かったね」みたいに捉えられているように感じてしまって。
才能の「種」みたいなものなら持っているかもしれないんですけど、それってものすごく時間をかけて自分の身を切って流した血で育てるものなのにな、というような。楽はまったくできないですから。
そしてこうおっしゃいます。
私は自分のやっていることについては、「同じだけやれば(誰であっても)できるんじゃないか」と感じているんです。ただやっている時間の長さのような気がしていて。
これを受けて西尾さんは
「一万時間の法則」と言われているような話でしょうかね。さまざまな分野で一流と言われている人の練習時間なり勉強時間なり、それにかけている時間を計算していけば、だいたいは一万時間以上だったというような、統計の結果があるらしいんです。
とおっしゃり、そして羽海野さんは
そういうのはあると思います。「才能」って、その一万時間なりをやった「あと」の話なんです。膨大な時間をかけさえすれば、ほとんどの人がかなりのところまでは来ると思うんですけど、そこからどこまですごいものを作れるかどうかこそがたぶん「才能」で。
だから、切符でも何でもないんですよね。切符があるなんて言われたら、生活のほとんどの時間をかけてきた過程の、とても長い思い出がすごく悲しがると言うか、「これのせいでほんとうに他のことは何にもできない人生になっちゃったな」みたいな思いは、ないものにされてしまうんです。
とおっしゃっています。
どちらの方もご自身の作品がアニメ化もされていますし、すでに一定のファンを獲得されている方のご意見ですから、なんか重みがありますね。
特に「才能は自分の身を切って流れた血で育てる(種のような)もの」という部分はかなりズシリときました。
どうも才能というのは「あればラッキーw」的なアイテムではなく、むしろ「それがあったせいで他のことは何もできなくなった呪いのアイテム」的な側面もあるようだと気付かされます。
まあこれも「どういう角度からそれを見るか」によって答えが変わる話でもあるというのは百も承知ですけどね。
羽海野さんはこう総括されてます。
私は「才能」って、プラスのものというよりはむしろ偏執的な、たとえば何か机の上のざらつきが気になってしまうといつまでもごしごしと拭き続けてしまい、ざらざらがなくなるまでどうしてもやらざるをえなくなるような、そんな病的なもののようにも思います。
そういうどちらかと言うと短所のようなものをきっかけに仕事をしていて、それが今は「才能」と言われてしまうわけだから、切ない話だなと感じてしまうのですけど。
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才能って、意外と悲しいものなのかもしれないなと正直思いました。
繰り返しになりますが「それ(才能の種)があったがために他のことは何もできない人生になった」というのはかなりズシリと来ます。
それが好きだからやってるとか、得意だったからやってるとか、そういう部分ももちろんあるんでしょうけど、逆に言うと「それしか選べる道がなかった」という一面もかなり大きいようですね。
西尾さんも羽海野さんもどちらも「大人数の中で仕事するなんて絶対ムリ」というタイプのようにお見受けしました。特に羽海野さんの方は
絵の道を選んだのは、あまりにも人がこわくて、あまりにも友達がいなかったからなんです。
とまでおっしゃっています。
西尾さんも羽海野さんも今は創作活動で生活できている方なわけですが、それでも西尾さんはこうおっしゃいます。
「悲しさから何かが発生する」というのは、特に創作方面に関してはそういう例が多いだろうなと思います。充実した十代を送っていたら、小説を書いていないはずだというのはある。今だってそんなところがありますよ。
小説をいっぱい出させてもらって、お仕事をさせてもらって、しあわせに過ごしていると思っていい状態にいるはずなんですけど、それでもどう考えても、学校帰りにわいわい仲間と盛り上がりながら電車に乗っている高校生のほうが、今の僕よりも楽しそうなんですよ(笑)。
西尾さんと自分なんて比べるべくもないですが、西尾さんのこのご意見、自分は共感してしまいました。
自分はコミュ障気味な性格でよくもまあ今日まで生きてこれたなと思えるほどですけど、それでも自分は今「自室で一人でできる仕事」でひっそりと社会の中に隠れ住んでるような状況ですからね。それで一応生活費から税金までまかなえてます。
普通の人からみたらむしろ悲しい人生のように思われるでしょうけど、「よく考えてみたらこれってすごいことなんじゃね?」と自分は思います。
それこそ「これしか自分にはない!」みたいな悲壮な決意もなくぼけーっと生きてきて、学校を卒業した後、絵に描いたようにズルズルと社会から転落してきたわけです。
流されるままに生きてきたと言われても仕方ない状況にありながら、それでもこんなおあつらえ向きの立場に立ってなんとか生きていられるなんて奇跡だ…と自分はどっかで思ってます。
そういう妙な気持ちはあるんですが、その辺の高校生見ると後光が射してるように見えたりしますからねw
社会にその名が轟いたと言っていいんじゃないかという西尾さんや羽海野さんですらこういう感覚を持っているというのは、ちょっと慰められましたね・・・。
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才能ってそんなにいいものじゃないのかも・・・な話でしたが、逆に自分にとっては今の状況を前向きにとらえ直せるいい機会になった気がします。
自分にとっては下手な芸能人よりもビッグネームである「西尾維新」さんや「羽海野チカ」さんがおっしゃったことだというのも大きいと思いますけどね。
つまり、「アレはできない、コレもできない。結局自分にはこれしかない」という消極的なきっかけで始めたことでも、あとは時間さえかければそれなりのところまではいけて、下手をするとそれが「あってよかったね」的なニュアンスの「才能」と言われることすらあり得ると。
これは自分にはけっこう救いとなるお話だったような気がします。
「あれがしたい、これもしたい。だから自分はこうするよ!」というポジティブな人生とはかけ離れてる自分で、今現在も「あれもできないし、これもできないし…」な選択肢の連続で生きている自分ですが、「『できない』の連続で辿り着いた場所」なら今現在一つ持っていますからね。
そんな自慢できるようなものじゃないですけどね。干されたら一発でアウトですし。
でも、「『出来ない』の連続な自分にでもかろうじてできること」が、どんな微かなものだったとしてもあるなら、あとはそれをひたすらやればいいだけというのは救いになります。
どうせ他にやることもないし、できることもないし、生活もかかってますから嫌でもやらざるを得ないですし。
もちろん「ただ時間さえかけりゃ何とかなる」みたいな単純な話じゃないのはあります。他の道が完全に断たれるくらいの覚悟がいるような感じです。
西尾さんはこうおっしゃいます。
そして、一万時間やったら、もう、やめられなくなるんですよね。あとに引けなくなる。一万時間やったら二万時間やるしかないみたいになってくる。最終的には「倒れるまでやるしかない」となるのをうっすら知っている僕としては、(以下略
一回、一万時間を越えてしまったら後に引けなくなるから若い人には勧めにくいという趣旨の部分です。
羽海野さんはこうおっしゃいます。
さっきおっしゃった「一万時間やったら二万時間やるしかなくなる」というのはほんとうにそうですよね。踏みこんじゃったのだからやるしかない、飛び込んじゃったら泳ぐしかない、そこからあとは「溺れるか」「岸に辿り着くか」のどちらかしかなくなるので。
リスキーな道なのは間違いないし、本人の感覚としても「それをやるだけで一日が終わる」みたいな日を毎日のように過ごさないといけないわけですし、楽な道じゃないのは確かみたいです。
だからこそ「他に道がなかった」という一種の諦めのようなものがないと、なかなかこういう選択肢は取れないのかもしれません。
そういう諦めがある人にとっては、「どうせ他の道を選んでも詰んでたわけだし」ということで、普通の人なら歩かない道でも歩けちゃうのかなーと思いました。
「『才能』ってそんなにいいものじゃないんだよ」というお話は、裏返せば「そんなにいいものじゃなくても『才能』につながるかも…?」ということであって、その架け橋は「時間」で、目安は最低「一万時間」ということになるでしょうか?
「どうせそれしかやること(できること)がない」という人にとってはけっこう救いになる話じゃないのかなーと思いました。
自分は今のポジションに生涯を捧げようとかそこまではまだ思ってないですが、「『できない』の連続」によって辿り着いた一つのポジションなのは間違いありません。
他にもうやれそうなことがなかったらこれに命を懸けてみてもいいのかな…と思えたお話でした。