一応引っ越し終わりました。二年連続でこのシーズンの引っ越し。パない。
年明けからずっと落ち着く間もなく突っ走ってきましたが(実際は引きこもりなのにね)、ようやく一区切りです。生活も落ち着きそう・・・かどうかもわかりません。
引っ越したからすべてがうまくいくとは、もう無邪気に思えません。
これまで抱えていた問題がまた別の問題にすり替わるだけであり、その問題を自分が許容できるかどうかという話なんでしょうね。自分の地雷でさえなければというところです。
区切りといってもこれはまた新しい戦いの始まりなんだろうなぁと、生まれて初めて心から思います。
ま、区切りがついたとはいえ、年明けから3ヵ月、ほとんど心休まる間もなくここまできたので、神経がヘンに昂っていて、気持ちがガチャガチャしてます。
ここまで神経が昂ると意識高い本も読む気にならず、ネットにも正直うんざりしているところもあり、やることなくてなんかなーと思って、ふと適当に本を取りました。
- 作者: 夏目漱石
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1948/10/27
- メディア: 文庫
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古典、「三四郎」です。
「それから」「門」とあわせて三部作と言われている作品で、文庫本を持ってますが実は三四郎しか読んでませんw 三四郎も内容はまったく覚えておりませんw
たまたま本棚にあったこの本を何げなく開いてみると、普段目にする事のない(web上では特に)古典的文章の運びが妙に心地良かったです。
言葉使いが丁寧というか、現代社会ではあまり使われない言い回しが使われているので、普通に読んでいるだけでも新鮮に感じる独特な雰囲気です。
こいつは厄介だとじゃぶじゃぶ遣っていると、廊下に足音がする。誰か便所へ這入った様子である。やがて出て来た。手を洗う。それが済んだら、ぎいと風呂場の戸を半分開けた。例の女が入り口から、「ちいと流しましょうか」と聞いた。三四郎は大きな声で、
「いえ沢山です」と断った。
何かしましょうか?という誘いを「いえ沢山です」と断るなんて、今やったらどこの中二病だよという話ですよねwww
今だったら「いえ大丈夫です」くらいがオブラートに包んだ遠慮の仕方かなーと思います。年配者はこれでも違和感を持つ人もおられるようですが。
これが『三四郎』執筆当時の標準的言葉使いだったのか、夏目漱石の文体が独特だったのか、どちらなんでしょうね。
どちらにしても、淡々と事実を描写しているようでいて、それでいて新聞の記事とはまた違う読み口のある不思議な文体が、まるで清流のように体に沁み渡って心地良かったです。
話の流れも過度にドラスティックなものもなく、昂った神経をいたずらに刺激されることもありません。普段なら退屈するような作品かもしれませんが、落ちつかなくてやることが思いつかないときはちょうどよかったです。
――――――
思うに、この3ヵ月にやっていたこと・考えていたことは、半分は強制イベントだったとはいえ、一度に新しいことをやろうとしすぎていたのだと、今は思います。
何か新しいことをやるとき、これまでの環境を10とするなら、新しいものに変える部分は1~3くらいに留めておいた方がいいと、何かで読んだ記憶があります。それを超えると負担も大きいし、一度にすべてを変えようとするとワケがわからなくなります。
本人がコントロールを失った状態で打つ一手は、バクチと一緒ですからね。
本人の器の大きさにもよるでしょうが、自分みたいに低スペックなヤツが許容できる領分は明らかにオーバーしていた気がする。
無理なダイエットが必ずリバウンドで戻ってくるように、燃やしちゃいけない何かを燃やして突っ走ったツケがこれから来るような気がして、ちょっとなーと。
当分、何となくでネット見るのはしばらく控えて(特にツイッター)、『三四郎』のような静かな古典でも読んで神経を休ませようかなーなんて思ってます。せっかくだし『それから』『門』も読んでみますかねー。