NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

無能の生きる道はどこに

無能関連の書き込みを前に立て続けに読んだときに、無能だと人生つらいのわかるなぁと思ったことがあって。

自分の存在価値を否定したくもなるけど、それはしない方がいいんだよなぁと最近は学習しました。

とはいえ、無能って生きる道がなかなかないよなーというのも正直な気持ちで、どうするのがいいだろうねというボヤキです。



無能にも人権あるのは当たり前ではないのだと

自分の無能ぶりに生きる価値なしとやさぐれてた時期が自分にもあったけど、最近は「いや、これは優性思想だなー」と思って安易に賛同はできないなと。

突き詰めると選民思想にもたどり着きそうなアレだし、有能だけが生きてろというのはなかなかに危うい発想ですわね。

そして日本国内でも優性思想に基づく施策が行われてた時代もあったわけで。

「社会に役立たないなら殺すという思想は、彼だけのものなのか」 ハンセン病から相模原事件、なお潜む優生思想

相模原の事件後の報道でも、ナチスが障害者を虐殺していたことが取りざたされた。しかし、日本にもたった20年前まで「優生保護法」という法律があったことは、あまり知られていない。
日本では、戦前から戦中にかけて、「優生学」の研究が活発になされていた。ただ、その理念が法律になったのは、終戦直後の1948年。「優生保護法」が制定され、障害者やハンセン病患者の「優生手術」が合法化された。

※2016年の記事。優生保護法があったのは今から見ると26年前。


ぼんやりとした「無能」に対するものではなく、厳密には障害者やハンセン病患者に対してのものですけど、優性思想に基づいた施策が公に行われた時代があったんだよなと。

これを是とすると自分が無能側に転落したときは人として扱われないことになりますし、無能の定義はあとからいくらでも変更できますからね。

かなり危うい世の中だったのだなぁという感想で、これがなくなったのはいい変化なのだと思います。



続報
旧優生保護法「違憲」、国に初の賠償命令 大阪高裁: 日本経済新聞

優生保護法(1948~96年)下で不妊手術を強制されたとして、近畿地方に住む男女3人が国に計5500万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が22日、大阪高裁であった。太田晃詳裁判長は旧法を違憲と判断し、計2750万円の賠償を命じた。全国9地裁・支部で起こされた訴訟で初の賠償命令。今後の被害者の救済のあり方に影響を与える可能性がある。

まだまだ途上という感じはしますけど、各人の能力に関わらず人としての権利が保障されているのは長い歴史の中で勝ち取ってきた戦果の一つだと思いますので、時計の針を戻すようなことはあまり言わないほうがいいんだろうなと最近は思ってます。


あと、世の中なにがあるかわからんもんで、自分に向いている道がひょんなことで見つかるかもだし。

無能認定はあくまで今現在の環境や価値観での話で、それらが変われば有能になるか、少なくとも無能ではなくなる可能性もあるわけで。

逆に今有能と思っても将来の保証はないわけで、かつて花形と言われた造船とか石炭の衰退ぶりを見ても、本当に世の中って何があるかわからんもんだなと。

いま無能と思ってもなるべく頑張ってしぶとく生きてみるのがいいのかなと。


でも無能として生きてると恨み言の一つもいいたくなるのはわかる

自分はどっちかというと無能側の人間なので、いや、そうはいっても無能のまま生きるってつらいんだよなぁというのも偽らざる本音で。

どこ行っても浮くし居心地は悪いしそもそも具合悪いし、何かの拍子に実害出したりして針のムシロに座らされる毎日だとそりゃ生き地獄と。

この世に生まれて、特に秀でたものはないけど自由に生きていいんだよと言われてもどこにも生きる道が用意されてないとか、以前よりはマシになったとはいえ、そこそこに残酷な扱いよなぁと思います。



とはいえ、この世に生まれてからの生きる道が最初から用意されてるなんてあるのかという気もします。そんな時代なかったんじゃないかと。

文明が発達したここ最近、人間に生まれ、実家が金持ちとか人並み以上の容姿や心身の健康を持ってるとかだと楽に生きられるようにはなってるかもですが、それほんと最近の話のように思いますし。

大人も子供も有能も無能も、とにかく生まれたあとは「セルフサービスで生き抜いてね」がこの世界のデフォルト設定のような気もして、そういうもんなのかなーという気もします。



人も含めて、生き物はわけもわからずこの世に生まれて、わけもわからず死ぬだけみたいな。下手な鉄砲を数打って誰か生き残ればOKみたいな感じでやってきた気もするので、自分に生きる道がなくてもまあそんなもんなのかもしれないです。

少なくとも一方的な無能認定をもとに生き方を公に制限されることは減ったので、あとは生きる道が用意されてないのがむしろ普通と思って地道にやっていくしかないのかなぁと。



でもやっぱり無能がしぶとく生きるって口で言うのは簡単だけど、そんな生易しいもんじゃねぇよ感はありますよねー・・・。

生きる力が弱いか、現在の環境や価値観と著しくフィットしないからこその無能なわけで、無能がしぶとく生きるって言葉はなんか矛盾してんなーという気もします。


そして無能が何かの拍子に出世してしまうと周囲や世の中に実害が及ぶ可能性が高いわけでしてね。

自分の衣食住を自分で賄えない人のコストは誰が負担するのかという話も綺麗事では済まない問題なわけで、難しい問題だと思います。


だからどうしたらいいんだろうねと非常にもにょっている

無能だからと自分の存在を否定しないほうがいいとは思うけど、無能も生きてればいいことあるよ、そのままでいいんだよとはとても気軽に言えることではないなぁと。

自分のできる範囲で有能を目指す、できることを増やす的な自助努力はどうしても必要なのかもと心の片隅では思います。

あとは自分の分を知り、周囲に流されずに損害の少ない範囲でしぶとく生きるという方針になるんだろうかと。


ただ、自分の分を適切に測れない、自助努力が著しくできないからこその無能というケースはいくらでもあるわけでね。無能の明日はどっちだ。

これまで見てきたなかではphaさんの生き方は合理性とか生産性とかに囚われない生き方でちょっと参考になるかなとは思いました。「集まってると死ににくい」は今でも名言と思ってます。


ニートの歩き方


最近読んだ山奥ニートはなにげに豪運な生き方だなぁとは思ったけど、めぐりあわせによってはこんな生き方も現実にできるのだよなと。


「山奥ニート」やってます。

こうやって世間の大多数とは違う方向ながらもしぶとく生きるという方向になるんだろうかと。


優性思想が反発される世の中に一応なってるとは思いますが、アメリカの人種差別問題のごとく、実際にはまだまだ根付いてる考えの気がします。

そういうのをあまり次世代に持ち越させないように、少なくとも無能が自分の存在を否定するとか、子供作るなとかはあまり口に出さないほうがいいのかもです。


その手の意見は優性思想の原理主義者を喜ばすだけとも思うし、無能が生きてること自体が合理性や生産性至上主義への嫌がらせというか、カウンターパンチになるともちょっと思いますし。

無能が生きづらいのは社会システムの問題もあると思っていて、個人でできることには限度もあるだろうけど、まあめげずにしぶとく生きるしかないのか・・・といった感想(愚痴)です。