NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

最近のアレコレ

最近のアレコレのナニコレです

防音対策は自分なりの他人との距離の取り方でもあった話

耳栓はいいぞっていう先月の話の、ちょっとした続き。

いつのころからか、他人様との距離感を意識するようになって。他人様とうまく距離を置くことが、周囲とうまく折り合う1つの方法だと思ってるんですよね。

で、耳栓とかも自分にとっては他人様とうまく距離を取る方法になっている気がして。


自分は音が通りやすいアパートに今住んでて、隣近所の存在感がガンガン伝わってくるわけですよ。

別に相手が悪い訳じゃなくても、やっぱりうるせーな、うっとうしいなって、勝手な感想が浮かぶときもあるわけで。もちろん自分も隣近所からそう思われてるわけで、その自覚もあるわけです。


この状況、なかなかきっついんですよねw いや、もう建物のスペック的にしゃーないことで、お互い様だし気にしない、意識しないっていうのが正論かもだけど、そんな理屈通りに感情は動かないわけですよ。

腕つねられて痛みを感じるなというのは無理な話で、他人の生活音が否応なく聞こえてくるこの距離感にあって、他人の存在を意識するな、気にするなってそりゃ無理だと(自分には)。

やっぱりうるせーな、うっとうしいなって身勝手な感想がどうしても浮かぶときはあるわけなんですよね。


そのままでいるとソウルジェムが濁ってくるんで、まあ適度に外出すんのがいいかなと思うし、一時期は実際そうしてたわけですが、今はコロナ禍でそれも叶わぬと。

このままでいるとダメな爆発するか、鬱の沼へと一人で沈んでいくかのどっちかになりそうなところ、耳栓のおかげでうまいこと距離が取れてるなとすごい感じます。


普通の生活音くらいならシリコンタイプの耳栓だけで十分に防げます。少々うるさくなったら、メロウズとかをつければやっぱり静音化できて。

起きているときならホワイトノイズ流すのでも平静を取り戻せて、周囲にいる他人の存在が自然と気にならなくなって。


本当は相手が近くにいるんだけど、自分のなかでは遠くに感じる。まさに距離を取るって感じなんですよね。壁が薄かろうがなんだろうが、音が聞こえないならどうということもない、みたいな。

もちろん限界はあるけど、耳栓とかの個人的な防音対策は他人とうまく距離を取って、なんとか折り合う自分なりの生き方になってきたなとも思っています。

いまの家は状況が整ったらまず引っ越すだろうけど、耳栓とかで隣近所と距離を置く生き方は今後もたぶん続けるだろうなと思ってます。



余談。

いまのアパートはなかなかひっでぇもんだけど、家賃安いし、入居の基準もいろいろ緩いっぽくて、面倒な住人もちらほらいるからこそ自分も当然のように入れてるって自覚はあるんですよね。

まあなかなかひでぇもんだけど、相応のメリットも一応は受けてて、なんとかかんとかそれなりの暮らしを普通に送れてることは感謝せにゃいかんなとも思ってます。


5億年ぶりに裁縫した話

お気に入りだったシャツのボタンが取れかかって、つけ直さにゃなぁと思いつつも時は光の速さで過ぎていって。

で、この度ようやくボタン付け直したわけですよ。小学生のときに買ってもらった裁縫セット引っ張り出してきて。


裁縫すんの5億年ぶりくらいだったんですけど、いや、覚えてるもんだなと。針に通した糸の結び方どうすんだっけ??って思いながら指が適当に動いて一応結んで。

見よう見まねで雑にボタンを糸で括りつけつつ、最後どうすんだっけ??とか思いながらなんかおぼろげな記憶を頼りにくるくると糸をボタンの周りに巻きつけつつ、針に糸巻き付けて結ぶアレをなんとなくやって、無事に終わったわけです。


いや、マジで覚えてるもんだなと。義務教育にはマジ感謝。年取るほどに若かりし頃に受けた教えのありがたみを痛感。

調子に乗って、ジャージのちょっと破れてたとこまで縫ってしまった。針と糸があれば何でもできる気がしてくる。



買い替えた方が早いかなって気はもちろんするけど、自炊といい、セルフカットといい、ワイたぶんDIYが好きなんですよね。

普通は外注するような何かを自分でやってると生きてる感じがしてなんか良き。ボタン1個取れたくらいで買い替えるのはさすがにもったいない気もするし。


最近の政治の話とか見て

オリンピック強硬あたりから現政権への失望感が加速していく一方で、自分のなかでは評価最底辺くらいだったんだけど。

首相交代が決まったあたりから総括する声をネットでちらほら見て。

jbpress.ismedia.jp


現政権はわりと仕事してた、ただアナウンスがまったく足りてなかったって意見が自分のなかでは印象的で。


自分はどうも政治を見る目がまったくないみたいで、前の安倍政権のときも「評価最底辺→降板が決まってから周囲の人の総括とか見て印象がかなり変わる」みたいな流れだったんですよね。

今回の菅政権も、わりと降板決まってから出てきた他人様の総括をちらっと見て印象がコロッと変わってるから、まだまだだわと思うところで。



その真偽も自分にはまだ当分わかりそうにないのでアレだけど、今回の件で印象的だったのは、菅政権って仕事はけっこうしてたけど発信がまったくなかったというアレで。

仕事はしてるけどアナウンスがない。有言実行ならぬ「無言実行」型だったのかなと。

職人的ともよくいわれる無言実行型のやり方って、わりと自分が理想としてるような動き方だよなって思うわけです。


でもその方法で現政権はわりと評価下げたところがあったように思うし、なにより自分自身もまったく評価してなかったわけで、これはなかなか悩ましいわと。

口を閉じてるのは効果的なリスクヘッジだと自分は思っていて、いらんこと言うくらいなら黙ってろ派なんですけど、立場のある人間は喋らなイカンときがあるとも思っているんですよね。

これは別に要職だけの話じゃなくて、そのへんのコンビニの店長とかでも一緒だと思ってます。それが社会的地位であれ、業務内容であれ、単純に年齢であれ、何らかの形で人の上に立つ人間には、多かれ少なかれ共通することだと思っていて。

立場のある人間が喋るべきときに黙ってるのは怠慢や職務放棄であって、まったく褒められたことじゃないと。


そこを無言実行型のやり方で押し通そうとすると、今回みたいなことになるのかなと。

自分がどこか理想としてきた無言実行型のやり方にも向き不向きや長所短所があって、いついかなるときも有効な方法ではないという、無言実行型の限界を俺たちに見せてくれたのかもしれんな、ガースーは、みたいなことを思っていました。



そして、口のうまさやパフォーマンス先行タイプを自分はあまり好んでこなかったけど、それも要素としてはやっぱり必要なのかなぁみたいなことも思って、なかなか悩ましいです。

口先だけ、言い方だけみたいなのはやっぱり好きじゃないんですけど、無言でもくもくとやるのがいつもいいわけじゃないというガースーの教えは、自戒として覚えておくべきなのか、みたいなことを思います。