頑張ってるのになんかうまくいかないみたいな不満を募らせてた若いころ、足りてなかった視点てこれだったなーと。
努力することが目的になっていて、結果につながる努力かを全然考えてなかったというね。いまにしてみると当たり前すぎるけど、若いころはけっこうわかってなかった話です。
最初から努力賞狙いの努力が多かったように思う
たとえば体力つけないといけないのに、ティッシュ箱をダンベル代わりにして筋力つくかというアレで。
やらないよりはマシかもしれんけど、ティッシュ箱を何百回持ち上げても筋肉つかないのはわかりきってるでしょうという。
普通にダンベルをダンベルにした方が筋肉つくのはわかりきっていて、そこ外してる時点でピントがちょっとずれてるんですよね。別にダンベルを使えない事情があるわけでもないのに。
なんでそんなことしてたかって、たぶん最初から努力賞狙いだったんだと思います。
本気で結果を出そうみたいな意気込みもやる気もなくて、なんとなく努力賞狙いに流れていたというか。それくらいしか実感のわくビジョンが浮かばなかったのもある気はします。
本人はめちゃくちゃ真剣とまでは言わんけど、完全にふざけてるわけでもサボってるわけでもなくて、そこそこには真面目なつもりだったのがまた悲劇なので。
周囲にとっても微妙に困る人間だったとも思いますしね。いまにすると、もっと早く気づけていればとも思います。
最初から努力賞狙いだと認められにくい
いま必要な結果が出ていないんだから当然といえば当然で。
大人の社会ってわりと残酷なところがあって、認められない人って怒られるよりは放っとかれる(距離を置かれる)ことが多くて、みんながなんとなくよそよそしい、冷たいみたいな状況になりがちで。
そういう機微に詳しいわけじゃないけど、なんとなく微妙な立場になってるのは察する感じで、がんばってるのにどうして・・・みたいな不満を募らせることもあったようにも思います。
どうしてって、そりゃさっきの通りで、いま必要な結果が出てないからなんですよね。周囲からすると別にイジワルじゃないし、わざと冷遇してるわけでもないみたいな。
その結果がなぜ今この場で必要なのかまで気が回っていないので、求められている結果をどこか軽視しているところもあった気がして、その温度差もあったかもしれないです。
自分は勝手に軽視していても、周囲や他人からはちゃんと事情があって求められているもの(そこまで詳しく説明はされていなくても)で、それが未達成だと、どんだけ努力はしましたみたいな顔してても、まあどうしようもないみたいな。
これは職場に限った話ではなくて、それ以外の人付き合いの場でも同じで。
たとえば自分がいつも失言しまくってて、仲間内でも若干微妙な空気になってきたときに、もうしないように気を付けようとしてても、結局は努力賞狙いの行動(周りにはそう見える行動)だけだと愛想をつかされることも出てくるかなと。
どうせ努力するなら結果につながる努力からやろうよというアレ
努力をしたくないわけじゃなくて、むしろ努力したいならちゃんと結果につながる努力から優先しましょうよという話で。
体力つけたいならティッシュ箱の前にダンベルを考えましょうよと。ダンベルがなければ中身満タンの2Lのペットボトルから使いましょうよと。
自分のイメージや思い付きで努力めいたことなんかやればいいわけじゃなくて、それが結果につながることが大前提なので、今やろうとしてることが今目指してる場所につながるものかどうか、一回考えてみればよかったなぁと今は思います。
目的につながらない努力って、たとえるなら北海道行こうとしてるのに沖縄行の飛行機乗ってるみたいなもので、それやってもどこかには行けるけど、今目指してる場所とは違うんだよという話で。
あと、若いころ中二っぽい感性がけっこう強くて、普通はやらないユニークなことで派手な結果を出したいみたいな変な考えもちょっとあったかもです。
リアル中学生がやるならほほえましくもあるけど、大人がやるのは直視できない痛々しさしかないのでやめとけと、若いころの自分には言ってあげたいですね。
結果につながる努力って、筋力つけるためにダンベル使うみたいな、普通の努力なんですよね。当たり前を当たり前に。今はそれが尊いと思うし、自分を救うことにもつながりやすいので、あとはそれをどんだけシンプルに実行できるかの問題だと思います。
努力は報われるとは限らないので、特別な事情がなければ結果につながりやすい努力から優先してやる方がいいかなと今は思ってます。