NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

人はいつから大人になるのか問題

若かりし頃にみっともない言動が多かったの、ひとえに子供だったからだと今では思うんですが、そうなると子供と大人の境目はどこにあったんだろうと思うようにもなっていて。

自分がひどく子供だったと思う時期って世間的にはかなりいい年だった時期も余裕で含まれてるので、単純に年齢じゃないなーと。

個人的には当たり前が当たり前じゃないんだと気付いたあたりだったかなーと思うというそのへんの話です。



当たり前は当たり前じゃないんだと

日本はいい国だとは、外国の方とか海外経験がある方からはよく言われてることで。

道路にゴミが散乱してない、電車が時間通りにくる、路上でいきなり撃たれない、サービスや商品の品質が良い、などなど。

こういうの、昔はなんとも思っていなかったけど、実は多くの人の誠意や勤勉さに支えられて実現している奇跡のような状況なのだと今は思っています。



もっと個人的なことに目を向けて、親が不倫も蒸発もギャンブルもせず当たり前のように自分を育ててくれたりとか、今でも実家帰ると笑顔で迎えてくれることとか、帰るときにあれこれと土産を持たせてくれることとか、そういうのも決して当たり前のことじゃなかったんだと。


感覚が変わった経緯が全然思い出せないんだけど、いつの頃からか「ああ、当たり前って当たり前じゃなかったんだ」って思うようにはなっていて。


記憶をたどると、なんか親戚の集まりに顔を出したとき、久々に会った叔父が昔と同じようにかわいがってくれて、そのときにふと「ああ、この人がいろいろ親切にしてくれるのはワイが甥だからであって、誰にでも同じようにしてるわけじゃないんだよな。叔父としての役目とかふるまいとかをこれまでずっと果たしてくれてたんだな」って思ったことはあったんですよね。

あと、たびたびニートやってたワイも何度か働いたことはあって、「普通のサービス」を維持するのにどんだけ手間暇がかかってるかを体感して、感覚が変わったところもあったと思います。


どちら決定的なきっかけではなかった気がするんですが、こういうちょっとした経験や気付きを重ねて、当たり前と思っていた状況はとても尊いものだったんだといつの頃からか思うようになった感じですかね。


似たような話で、一人暮らしすると自分のために周りが何かしてくれるのは当然じゃないと気付くし、車持つと維持費とかガソリン代とか駐車場代とかの出費が地味にデカいとよくわかるし、いろいろな立場を経験すると自然に視野が広がるってことなのかもしれません。


見方が変われば物腰や言葉使いが変わってくるかなと

若かりし頃にみっともない言動が多かった原因の1つに、周囲への敬意のなさもあったと思うわけです。

自分がどれだけありがたい環境にいて、今この瞬間も不特定多数の方の世話になっていることに微塵も気付いてなかったと思いますかね。残念なことに。

その敬意のなさが失礼な言動につながっていた部分もたぶんあって、人生の難易度を余計に上げていたよなと。


今は昔に比べて多少は周囲への敬意を抱けるようにはなっていて(たぶん)、物腰や言葉遣いが丁寧な方向へと自然に変わっていったような気がします。

礼儀作法とかコミュニケーション術とかを意識しなくても、物の見方が変われば言動が変わって、周囲とも折り合いやすくなるものだなと。

コミュ障対策として効率的でよかったと今はちょっと思うところですが、まあ効率目的でやることではないかもですね。周囲への敬意って、できれば人として持っておきたい姿勢という気がするし。



とはいえ、周囲への敬意って直接は見えないもので、ちょっと掴みどころのない話かなとは思います。はっきりしない曖昧なものは昔の自分がちょっと苦手にしていたもので。

だからこそ、周囲への敬意をうまく持てないときはどうすればいいのよ??ってところが肝心なわけですが、そこがいまになって曖昧なのがちょっと無念なところですかね。



いろいろな経験をして視野を広げることのほかに、敬意を持とうと自分から努力することも大事だったのかもです。

相手の良いところや尊敬できるところを意識して探すというか、そういう努力からも敬意って出てくるものだったのかもですね。


あと、本心からの言動ではなくても、行動や言葉が中身を変えることもあるので、形だけでも相手への敬意や礼儀に注意することも効果的なのかもだし。

どれも若かりし日の自分に足りてなかったものだったのかなとは、ちょっと思います。


余談 大人と子供の境目に関するもう1つの基準

当たり前が当たり前じゃなくなることのほかに、ないものねだりを止めたときも大人になったときなのかなーと、個人的にはちょっと思います。

なんか、育ちの良かった人はアウトローっぽさを、泥臭く育った人は毛並みの良さをどこか求める傾向がある気がするんですよね。


なんか変な生き方してた時期がここ10年であったんだけど、それってどちらかといえば落ち着いた環境で育った自分がアウトローっぽさを求めていた時期だったのかもしれないと今は思ってます。

こういうの、結局はないものねだりで、隣の芝生は青く見えるがゆえの行動なんですよね。自分の強みや長所を強く自覚していないがゆえの行動ともいえるかもしれません。



大人になる過程で自分にないものを求めるのも大事なことだけど、年を取ると人生のタイムリミットも迫ってきて、自分にないものを追い求めるのにも限度が出てくるというか。

自分が何者で、何に強みがあって、どうするのが自他にとって最良の道となるのかを思えば、手元に今あるものを活かしていくのがだいたいは現実的で。



「ああ、ワイにはこの方向性が合ってるんやな」って思って、ないものねだりをしなくなったあたりも、個人的には大人になったタイミングかなと感じるとこです。

ちなみに、ないものねだりをしないのと新しいことを学ばないのは似て非なることで、ないものねだりをしないのは、あくまで自分が持っていない何かを必要もないのに求めないって話で、必要なら大幅な方針転換もやぶさかではないって感じですかね。

今は難しい時代でもあるし、大幅な方針転換なしで一生を終えられる人も少ないと思うので、そのへんは臨機応変にという感じです。