NCの日記

孤立気味に生きてきたおっさんの日記です

日本語の読解力を見直していたときの話

いい年の大人でも意外と日本語読めてないって話は定期的にネットで話題になる印象があって、実は自分も読解力が怪しい例にもれずでした。

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そう思ったきっかけは、たぶん読解力ネタでなんかがバズってる時期に「この一文、どういう意味が分かる?」ネタで素に間違えたってやつだったと思います。


ああ、自分は自分が思ってるより日本語読めてなくて、それでなんか周囲とかみ合わないことがあったのかなと思って。

あと、文章をきちんと読めれば本やテキストから正しく学べて、人に何かを聞きに行く頻度を減らせるじゃないか、文章の読解力はコミュ障にとって超大事じゃないかと思って、それで自分の読解力をちょっと見直していたときの話です。


最初にやったのは受験生向けの問題集だった

読解力を鍛える方法として最初に思い浮かんだのは、受験生向けの現代文の問題集でした。

本当に受験するわけじゃないので最新の問題集は必要なくて、近所のブックオフとかで投げ売りされてた型落ちの問題集をひとまず買って、いつぶりかという現代文の問題集を解いていったわけです。


問題には漢字の書き取りとかもあるけど、そのへんはもうオールスルーです。読解力に関係ありそうな、問題文の意味や主張を問うものだけに絞って解いていく感じで。

結果がどうだったのかはあまり覚えてないけど、たぶんそんなには解けなかったんだと思います。


結果よりも、自分が買ったテキストの「現代文の解き方」みたいなのがすごい印象に残っていて、いわく「問いの答えはすべて問題文のなかに書いてある。回答の根拠は、徹頭徹尾、問題文のなかから探してくるべきである」と。

ああ、なるほどなと。このスタンスは学生時代の自分も全然身についていなかったなと。いや、じゃあどうやって問題解いてたんだよって話だけど、まあ日本語ネイティブだから何となく読めちゃって、何となく正解にたどり着けてたところがあったのだと思います。


現代文はそんなに苦手だった記憶はないけど、特別に得意だった記憶もなくて、まあ何となく60~80点の間をウロウロしてたような気がします。

でも読解力が若干怪しい人って、日本語ネイティブだから何となく日本語が読めちゃって、中途半端に正解もするから、かえって自分の問題点に気付きにくかったりするんだと思うんですよね。自分はたぶんこのパターンでした。



その問題集が言うスタンスや解き方をふまえて改めて考えると、たぶん自分は大前提として、文章への向き合い方がちょっと違ったんだなと。

現代文の問題では、その文章を読んでの自分の感想や主張、閃いたアイデアとかは一切聞かれてなくて、徹頭徹尾、「その文章には何が書いてありますか」と問われているんだなと。

その文章が読みやすいとか読みにくいとか、主張内容への個人的な賛否とかはいったんすべて脇に置いて、この文章には○○ということが書いてあると、意識的にそれだけを拾って答えていくようにすればいいのだなと。


そして、普段は日本語の読み書きにあたって文法とかを常に意識してる人ばかりじゃないだろうけど、現代文の問題を解くときは、日本語の文法に厳密に則って文章を読まないといけないんだなと。

「日本語の文法を厳密に適用して次の文を読むとき、何が書いてあるといえますか」と問われているともいえるのだろうなと。



この問題文に対する向き合い方が自分にとっては目からウロコの話で、これほんと学生時代に知りたかったっすよ・・・って感想しかなかった。

テストで点を伸ばすための読み方のコツ、解法のテクニックみたいなのも載っていて、そのへんは受験生向けのトピックなので流し読み気味でしたけど、なんというか、国語力とか読解力と呼ばれるものは、ある種のスキルなのだなとは思いました。

なんか持って生まれたもので決まるセンスのようなイメージを漠然と持っていたけど、一定の方針に基づく反復トレーニングでだいたいの人が力を伸ばせるスキルだったのだなと。



もともと文章を読むのは好きなほうだったし、この問題集から学んだ文章への向き合い方に則って現代文を読んで問いに答えていくのは、自分にとって新鮮な体験でなかなか楽しかったです。

そして、あくまでその文章に書いてあることだけを日本語の文法に則って読み解き、自分の感想やコメントとかとは区別して扱うことは、別に現代文の問題に対峙するときだけの話じゃなくて、ごく一般的なコミュニケーションの場とかでも普通に行われていることだわなと。


これができないと、コミュニケーションにも支障が出て来るわけで。ネットで変な絡み方してる垢、書いてあることを書いてある通りに読み取れていなかったりするもんなと。

わりと自分もそういう人たちと近いスタンスで文章を読んでたんだなーと思うと、いやー、自戒自戒、他人のふり見て我がふりリペアとしか思えない。


日本語の「係り受け」の理解に役立った本

日本語の正しい読み取りには、日本語の文法の知識も欠かせないわけで、そして日本語の文法において係り受けはなかなかの比重を占める問題だと個人的には思っています。

係り受けとは何かって、あまり自分が語るべきじゃないけど、辞書的な意味でいえば「文章中で、係る語句と受ける語句。たとえば、主語と述語、修飾語と被修飾語は係り受けの関係にある」となります。

「私はブロガーだ」の一文において、「私は」が「ブロガーだ」に係るという構図にあって、つまりこの「私」なる人物が「ブロガー」だと言っている文章になると。


これだけ単純なら誰でも意味はわかるところですけど、実際の日本語では「私は、長年悩み続けてきたコミュ障関連の内容をテーマとした、病弱なブロガーだ」みたいな文章になるわけで。

この例文でも「私」が「ブロガー」に係っている、つまり「私=ブロガー」の図式は同じなんだけど、どんなブロガーなのかも係り受けで説明されているわけで、具体的には

・コミュ障関連の内容をテーマとした
・病弱な

ブロガー

であり、ついでに「コミュ障関連の内容」には「長年悩み続けてきた」が係っているという、このへんの話が「係り受け」なわけで。



この係り受けを学ぶうえでは、以下の本が役に立ちました。

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自分が読んだこの「大活字版」の初版は2003年で、今から見るともう20年前ですが、大活字版でない普通の「日本語の作文技術」は、1982年に出版されて多くの方から読み継がれてきたベストセラーです。

タイトルの通り、日本語を読むのではなく「書く」を想定した本なのですけど、第1章の『「修飾」の技術』は基本的に係り受けの話です。


自分が読んだこの大活字版の何が良いかって、テキストのフォントが大きくて単純に読みやすいところですかね。

あと、これは元からなのか大活字版だけなのかはわかりませんが、例文中の係り受けの構造が図示されてるんですよ。

何が何に係っているとか、わかりやすい係り受けの語順とかが図で説明されているおかげで、全体的にわかりやすかったです。


そして、改めて本書の前置きを見ると、日本語の作文力は学習可能な技術だと筆者が語っていて、読解力とはまた別の話かもだけど、日本語力はやはりセンスとかではないのかもなとちょっと思いました。

 実はこうした文章論に類するものを書くことに、私はいさかかの躊躇と羞恥をおぼえざるをえない。というのは、私自身が特にすぐれた文章を書いているわけではないし、もちろん「名文家」でもないからだ。
 にもかかわらず書くのは、開きなおって言うなら、むしろヘタだからこそなのだ。(中略)はからずも新聞記者となり、その後も文章を書くことを生業としてきたが、もはや「名文」や「うまい文章」を書くことは、ほとんどあきらめた。あれは一種の才能だ。それが自分にはないのだ。
 しかしこれまで努力してきて、あるていどそれが実現したと思っているのは、文章をわかりやすくするということである。これは才能というよりも技術の問題だからだ。技術は学習と伝達が可能なものである。「わかりやすい文章」も、技術である以上だれにも学習可能なはずだ。そのような「技術」としての作文を、これから論じてみよう。

読解力の見直しの結果どうなったのか問題

問題集を解いてみたりとか、いろいろやってみて、前よりは日本語の解像度が上がって文章を読むこと自体がさらに楽しくなった感じです。

それも、このブログのようなへにゃへにゃした文章じゃなくて、もっとばちっと書かれた正確な文章を前よりも楽しく読めるようになった感じですね。


ばちっとした正確な日本語を書くのは、たとえば医師。

新型コロナの流行を受けて、医師による注意喚起や最新の状況解説のWEB記事を読む機会も最近まで多くて、内容もさることながら、文章がやっぱきれいだなーとか思ってました。

news.yahoo.co.jp


コロナ関係でもよく名前を見かけた岩田健太郎氏の昔の著作も読む機会があって、同じく内容よりも日本語のきれいさや正確さが印象に残っています。

honto.jp

こういう方達、別に執筆自体が本業ではないわけで、それでもこれだけきれいな文章をしれっと書いているのを見ると、一応はブロガーとして文章を書いている自分としてはもう震えて眠るしかねぇと。

なんだかんだ、高学歴な方達や高い学力が必要な職業に就いている方達って、日本語の高等教育をきっちり受けて来ていて、本人たちもそれをしっかり乗り越えてきた方達なんだろうなと感じるところです。


読解力の見直しがコミュ障対策につながったのかは、いまのところは特に実感はないのですが、前よりは周囲とコミュニケーションがとりやすくなったような気はします。

あと、一読して意味が取れなかった文章に出会ったとき、文章の構造に注目して意味を1つずつ押さえていくようになりました。


意味を取りにくい文章に対して、前はたぶん適当な類推で済ませてたような気がするんですよね。そこは行動が雑だったと思います。

文章やテキストの意味を前よりは意味を正確にくみ取れるようにはなったとは思うので、これで文章やテキストから何かを学びやすくなって、人と直接接する頻度を下げられたんじゃないかと個人的には思うところですw


まあ日本人として生きてる以上、日本語読めて困ることはないわけで、細かいところは抜きにしてやってよかったなと思ってます。